結末のはじまり~光のさすほうへ~

私自身を見つめるための記録

お返し文化と無償の愛について

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誰かに何かをしてあげたときってね

きっと私にも見返りがあるって思ってしまう。

逆に

誰かが何かをしてくれたら

私も何かしてあげないとって思ってしまう。

これってすごく日本人らしい考え方だなって思う。

「お返し」って言葉があるくらいだからね。

お祝いやお悔やみをしても、○○返しってあるしね。

バレンタインデーにもホワイトデーがあるし。

純粋に相手のことを想って贈り物をしているのに

逆に気を遣わせちゃったなって思うこと

たくさんあります。

それでわざわざ

「お返しの心配はいりませんよ。」って言ってあげることもあるし

御中元、御歳暮、年賀状などを

「今後は我が家はしません。」とか

「お互いにやりとりはやめましょうね。」

ってやめましょう宣言をすることもありますね。



だんだん

そういったお返し文化から脱却しようとしてるのかもしれない。



それって恋愛にも言えるのかなぁ~って思います。

私がこれだけしてるんだから、おなじようにしてほしい。

私がこれだけ想っているのだから、おなじように想ってほしい。

私がメッセージを送っているのだから、おなじように返してほしい。

それがかなわないと

すごくさみしくて

すごく悲しくて

すごく不安になってしまうよね。

わたしも、若い時の恋愛はそうだったな~。

それで

なんでおなじようにしてくれないの?って思ってしまったし

それを「なんで?」って聞いてしまった。



ちゃんと好きって言ってもらいたかった。

ちゃんと付き合おうって言ってもらいたかった。

会いたいよ、大事だよって言ってもらいたかった。

メッセージには返事をしてもらいたかった。

○○してほしいばっかりになってしまってたな。



それはそれで、いいと思うけれどね。

いま

わたしもそれなりに歳を重ねていい大人になって思うこと。

それはね

人の感情はコントロールできないし

人の感情はすべて行動に表れてるってこと。



何も言わなくても

手をつないでくれたり

連絡は少なくても

ちゃんと時々会ってくれたり

付き合おうって宣言しなくても

心地よければなんとなくいつも一緒にいる。

それでいいんじゃないかな。



たとえば

彼がレモンティーを好きって言ったから

待ち受けをレモンティーにしてみた、

それだけのことが愛おしいって

それが「好き」なんじゃないかな。



「無償の愛」って言葉があるよね。

それってすごくおかしいなって思うんです。

いわゆる、親とか子供とかにたいして

見返りを求めない愛

のことを言うと思うけれど

そもそも「愛」って、無償なんだよ。

「有償の愛」なんてないのにさ

わざわざ「無償の」なんてつけてるんだよね。

愛はいつも、見返りなんて求めてはいけない。



メッセージが返ってこない

手をつないでくれない

最近会ってくれない

「なんで?」じゃなくて

「そういうことだよ。」ということなんだよね。

行動がすべてなんだと思う。



相手がどうだって、私が好きだからいいじゃない。

相手がどうだって、私が愛してるんだからいいじゃない。

それがすべてなんだと思う。



相手の迷惑になってしまうようなことは

してはいけないよ。

それが大前提。

もし

相手もおなじように想ってくれたとしたら

それは素敵なことだよね。

あげっぱなしの愛

そういうものをわたしは

「大いなる愛」って呼んでいます。

MIKENEKOとしてのスタート

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自分の思いを吐き出そうと書き始めた日記なので

とても「ブログ」とも言えるものではないのです。

でも

読んでくださる方がいて

☆を付けてくださる方がいて

ふと

自分が発信者にもなっていることに気が付きました。

それが目的ではないってことは今も変わりないけれど

誰かに読んでもらうってことも

考えてもいいのかなって思います。

わたしも、新しいことを始めてみようかなと。

ちょっと照れくさいですが。

そんなわけで

ペンネームとプロフィールをちゃんと設定してみました。




MIKENEKOっていうのは、三毛猫のことです。

好きなので。

素人のお絵かきですが、自分で描いてみました。

この絵を描くときに

先に違う紙に練習をしていました。

それを娘が見ていて

そちらのほうに色をつけたいと言ったので

好きにさせてみました。

それがこちら。

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なんだかこっちのほうがいいでしょう。




と、いうわけで、わたしの新しいスタート。

よろしくお願いします。

こもれびに想う

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ずっと光を探している。

 

光を探すように、人とのつながりを求めていた。

何らかのアプローチに反応をしてもらうことで

自分の存在価値を見出そうとしたのかもしれない。

 

それがときには

言葉だけのやりとりのこともあったし

それ以上になることもあった。

同じ熱量で語り合ったり触れ合ったりすることが

心地よいと感じたこともあった。

 

それでもいつもどこか虚しかった。

その虚しさはどこからくるんだろう。

 

なにをしても満たされない思い。

ずっとずっとそうだった。

それがこの一年は余計に強く感じる。

 

つながっている人々が皆

虚像のように感じる。

実体のない、仮想的な存在なのかもしれないって。

存在なんてしていないかのように

不意に消えてしまうものなんじゃないかって。 

 

ただ

あたたかな優しさで包み込むように接してくれていた存在が

あるとき手のひらを返したように冷たく突き放してくる。

そんなときは妙に人間臭くって

やっぱりわたしがつながっていたのは

生身の人間だったんだって思う。

その残酷さよ。

 

 

もう人を好きになることなんて

怖くて怖くて、とてもできない。

もう人とつながりをもつことなんて

さみしくてさみしくて、とてもできない。

ただ虚しさを助長させるだけだから。

 

思い知ったことがある。

人間は取捨選択して生きていくものだって。

必要ないものを容赦なく切り捨てる。

 

切り捨てられた者の思いなどお構いなし。

自分がどう生きたいか

自分にはなにが必要か

それが判断基準。

結局は自分を守るのに全力を尽くす。

 

それを否定するつもりなんてない。

それが当たり前だから。

そしてわたし自身もそうだから。

 

そこまでわかっているのに

まだ光を探している。

だからわたしは伝えてみるんだよ。

 

怖くてさみしくて虚しい先に

まだなにかがあるかもしれないと

かすかに希望をもっているから。

 

 

お題「#この1年の変化

わたし

他人への方が優しくできる。

その上理解した気になって

わたしはあなたの味方よ、なんて言ってみる。

なんでだろうね。

血の繋がった家族は

当然大切だし愛おしいし必要なのに

時に突き放すほど冷たくしてしまう。

ほんとうは

そうではないのに。




他人への方が優しくなれる。

それはもしかしたら

必ず離れる時が来るのがわかっているからかな。

離れることは決まってる。

でもできるだけ繋がっていたい。

嫌われたくはない。

だから

優しさを与え

愛情を与え

理解者ぶって

味方ぶって

そして

その見返りを求めるのかもしれない。





血の繋がりは

絶対的なものだと思う。

どんなに抗っても断ち切ることは出来ない。

だからこそまた

何をしても許されるような

錯覚をしているのかもしれない。

どんなに背を背けても

そんな冷たい言葉を放っても

その繋がりを切ることはできないと

信じきっているから。




だからこそ時に

ほんとうに信じるべきものを

ほんとうに大切にするべきものを

見誤ってしまう。

判断を鈍らせる。

絶対的な繋がりの前に。




そしてしばらくして気がつくんだ。

ほんとうにそばにいてほしいものの

存在に。




そうやって何度も何度も

同じ誤ちを繰り返し

同じ後悔を繰り返し

大事なものを何度も何度も

傷つけて

失ってきた。




でもね。

それでも

そうでしかいられなかった自分を

そうやってしか生きられない自分を

他人と繋がって愛されたくて仕方ない

そんな自分さえも

わたしは許すしかないんだよ。

これがわたしだもの。

こころの声

あまり辛い気持ちを文字にしたくなかったけど

吐き出すところがなくって。

今日だけ。




今日の昼間、急に耳鳴りがして

右耳からふっと音が消えた。

全く聴こえないんじゃなくて

すごく遠くで音が鳴っている感じ。

そしたら今度は左耳にキーンって金属音。

パソコンで作業してる時間帯だったから

そのまま何事もなく仕事して帰ったけど

すごく怖かった。




今はほぼ普通に聴こえてるから大丈夫かな。

前からこういうことはあったから

そんなに動揺してるわけじゃないけど

今までで一番ひどくて一番長くて

またあるんじゃないかって

不安になってる。

突発性難聴なんてものじゃないと思うけど。

もともと音にはいい意味でも悪い意味でも

すごく敏感だから、、

一番最初にガタがきたのかな。




最近つらいことが続いて

でもそれに負けまいと自分を奮い立たせて

生きよう生きようって。

今日は

キーンって音が

もう無理だよ消えちゃえよって

囁いているみたいだった。




それで思ったんだ。

あぁ、自分のこころの声を聞いてなかったなって。

ほんとは

辛くて

苦しくて

寂しくて

声を上げて泣きたかった。

それを押し殺して

大丈夫、頑張れる、って思おうとしてた。




ちょっと疲れたんだね。

辛かったよね。

少し休もうよ。

って。

だれも言ってくれないなら

自分で言ってあげるんだ。

自分をいたわってあげるのを忘れてた。





今日だけ泣いてもいいかな。

それでまた頑張るよ。

生きたいんだ。

きづきと、きずつきと

自分の心に従って決めたことを

だれも責めたりはしないよ。

だれも否定しないよ。



どんな気持ちで決断したか

わかるよ。

ちゃんと理解してるよ。

だから大丈夫なんだよ。



ほら

自分を許して

自分を愛して

自分を信じて



天はあなたを見放したりはしない



そしてわたしは気づいたんだ。

ほんとうは、

ほんの少しだけ力になりたかった

ほんの少しだけ役に立ちたかった

ほんの少しだけわかってもらいたくて

ほんの少しだけ、救ってもらいたかった。

でもわたしにはうまくいかないんだ。

感情のコントロールが下手でさ。

そんなわたしだから

これからもわたしの存在がきっと

邪魔になるだろう。

応援してるという一言もきっと

邪魔になるだろう。



もう、関わらないことが

唯一わたしにできることだって

気づいたんだ。



この数ヶ月のやりとりを忘れていいよ。

かけた言葉も

友人であったことも

ファンだと言ったことも

忘れて欲しい。



忘れて欲しい。

もうこれ以上傷つかないように。

いまはまだ蕾でも

花が美しく咲き誇るのは

自分の遺伝子を残すためでしょう。

種を落とした後は、儚く寂しく朽ち果てていく。

 

 

三島由紀夫の「金閣寺」の中で

僧は

金閣寺の美しさを永遠のものにするため

金閣寺を焼いてしまう。

自分の心に突き刺さるほどの美しさを

朽ち果てさせたくはなかったから。

 

 

そういうものの美しさが人の心を動かすんだ。

 

 

人間もそうかもしれない。

美しくあろうと思う。

本能的にはやはり、遺伝子を残すためだろうね。

でもそれだけではない。

よりよい自分でいることが

この世に生きる自分の価値になると思っているからかな。

いつか必ず死が訪れるから。

だれもがひとりきりで儚く寂しく死んでいくときがくる。

そのときに

生きてきた美しさが残るんだ。

後に生きる人たちの心に。

 

 

そもそも

美しいなんて言葉自体

とらえようもなく

不安定で

はっきりとこれといった定義も概念もないものだけど。

ならば美しさは自分で決めればいいじゃない。

 

 

さてなにを残す?

どうせ創り出すのなら

自分の心を震わせるような途方もなく美しいものを

とは思わない?

それが人の心を動かすんじゃないかな。

 

 

どんな花も太陽に向かって

花を開かせようと

自分のエネルギーを注ぎ込む。

 

 

これから咲かせようよ。

疲れたら休んでもいい。

たくさん悩んで考えて答えの出ないものがあってもいい。

そうやってエネルギーを少しずつ蓄えながら

それでも確実に着実に一歩ずつ。

あなたの花を咲かせてほしい。